OPEN SITE 10|公募プログラム【展示部門】
植民地支配の歴史や土地の収用、未来への展望によって形成された、インドネシアの教育システムや社会規範を探究するビデオ・アート三部作。映像はそれぞれ、異なる時代ごとに植民地支配の影響にあらがう物語を描き、科学技術の進歩や他国による自然資源の搾取における重要な要素として、水について考察する。
歴史を現代美術の実践の中で新たに読み解き、ポストコロニアル諸国が現代の科学技術をいかに再利用するかを検証する。
| 会期 | 2025年11月22日(土) - 12月21日(日) |
|---|---|
| 休館日 | 月曜日(11 月24 日は開館)、11 月25 日(火) |
| 時間 | 11:00-19:00 |
| 入場料 | 無料 |
| 企画コラボレーター | A. Semali、Timothy Satyaabieza、Dian Suci Rahmawati、Armand Perdana、LOKUS Foundation、Michael Sadena Dibyantoro、Aqi Singgih、BaBam、Bagas Oktariyan、M. Akbar |
| 協力 | SAM Funds for Art and Ecology(《The Fattest Land at the Fair》)、Hyundai Motor Group(《Fluidity of the Future Machines》) |
| 会場 | トーキョーアーツアンドスペース本郷 スペースB(2F) |

《The Fattest Land at the Fair》2021 Courtesy of the artist
《The Fattest Land at the Fair》2021 Courtesy of the artist
《Fluidity of the Future Machines》2021 4th VH Award Documentation @Ars Electronica Festival 2022
《Fluidity of the Future Machines》2021 4th VH Award Documentation @Ars Electronica Festival 2022本展で3本の映像作品を中心としたインスタレーションを展開するコトゥルナダが、同じく映像表現を行うインドネシアのアーティスト2名をゲストに迎えトークを行います。 インドネシアにおけるビデオ・アートの台頭と変遷、コロナ禍がもたらした転機、表現の広がりなどについて、社会背景と個々の実践を踏まえて語られる、貴重な機会となります。
| 日時 | 11月30日(日)16:00- |
|---|---|
| 出演 | シャウラ・コトゥルナダ |
| ゲスト | シャイフル・アウリア・ガリバルディ(ビジュアル・アーティスト、LOKUS Foundation共同創設者) 1985年ジャカルタ生まれ。バンドンを拠点に活動。自然とテクノロジー、生物的なものと人工的なものとの関係を探るように制作を行う。 リスキー・ラズアルディ(アーティスト、キュレーター) 1982年スマラン(インドネシア)生まれ。バンドンを拠点に活動。主に映像と拡張映画を用いて、制度化された情報にまつわる作品を制作する。 海外クリエーター招聘プログラム(2024)参加、トーキョーアーツアンドスペースレジデンス2025 成果発表展「リンガ・フランカ」参加。 |
| 言語 | 日英逐次通訳 |
| 料金 | 無料 |
| 会場 | トーキョーアーツアンドスペース本郷 スペースB(2F) |
インドネシア生まれ。写真、テキスタイル、インスタレーション、ビデオ・アート、論文、アーカイブなど幅広い
表現手法を用いる。美術の修士号と合わせて機械工学と写真の経験をもち、技術を活かした創作活動を展開している。
主な展覧会に「Indonesia Bertutur: VISARALOKA」(Neka Art Museum、バリ、2024)、「Indonesian Young Artist:
Redefining the Indonesian Aesthetic」(Gajah Gallery、シンガポール、2023)
https://www.syaurasyau.com/
出版物ページより「OPEN SITE 10」各作家のカタログをダウンロードできます。ダウンロードはこちら
欲望をめぐる輪舞
近藤由紀(OPEN SITE 10審査員/トーキョーアーツアンドスペース プログラムディレクター)
シャウラ・コトゥルナダの2020-2021年の映像三作品を軸に構成された本展覧会は、三つの異なる時代、異なるモチーフ、異なる映像制作手法、異なる語り口で表される個別の断片によって「インドネシア」という一つの国の現在地を描き出すことを試みている。作家はこの三作品は、それぞれ過去、現在、未来について言及しており、母親、子供、老人の異なるキャラクターに物語を語らせたと説明している。各物語は非線的、非秩序的に語られ、いくつかのエピソードが断片的につなぎ合わせられ、それらが時に重なり合い、時に補足しあい、時に反響しあいながらそれぞれの場面を作り上げている。
各作品には意匠的に編集、視覚化されたテキストが添えられているが、可読性は必ずしも考慮されていない。比較的情報量の多い展示でありながら、この「難読性」は全体に通底している。各映像にはインドネシア語によるナレーションが含まれ、インドネシア語による字幕もつけられている。しかしこの字幕は、コトゥルナダが2016年から開始したインドネシアにおける言語の来歴・構造研究を反映し、さまざまな外来語が、その元の言語の文字(サンスクリット語、アラビア語、英語、オランダ語など)のままで併記され、インドネシア語を解する鑑賞者に対してもテキストは難読化されている。こうした「読むことの困難さ」は、インドネシアの共通語の識字率の低さ、あるいは記録と記憶、歴史と口承の隔たりを感じさせると同時に、その放埓な言語的豊かさがインドネシアの多様性も想起させる。
最初に展示された「過去」を示す《The Fattest Land at the Fair》(市場で最も肥えた土地)では、植民地時代に行われた人体的特徴の採取や「純粋な人種」の探索を目的に行われた人骨の収集、採取とそれにまつわる狂騒の物語から始まる。人種人類学を生んだそれは単に植民者による被植民者の搾取にとどまらず、搾取される側が別の搾取する欲望を生み出していく。そして科学技術の進歩がさらにそれを体系化、制度化し、植民地時代とは異なる富の分配格差を生み出しながら発展させ、原始的な欲望が、循環しながら時代を超えてもはや善悪がつきにくい形にまで膨張した姿として私たちの身近な存在となっていく様を示す。発掘現場や巨大墓を思わせる赤土色に塗られた箱型の展示空間は、我々のあらゆる身体が情報化され、植民地時代に地中から採集された人骨同様に、富を生む資源として資本主義の名のもとに採取され、誰とは知らぬ巨大な資本に搾取され続けるさまを想起させる。
「現在」を示す《ALANLIC》(Astronaut, Living Area, and Nomads’ Land Identity Card:宇宙飛行士、生活空間、そしてどこでもない国のIDカード)の映像作品では、新卒者から集められた不採用論文を破り、水に浸し、固めて紙粘土状のものを黙々と作り続ける人物が映し出される。甲高いボイスオーバーが、宇宙産業とそこに携わるための高等教育、エリート育成システムとその課題からはじまり、次第に家庭あるいはコミュニティにおける人格教育の問題に言及していく。子供のような声は一定のトーンを保ちながらも、次第に社会に対する不満や怒りのようなものをにじませていく。ここでのテキストは壁面に鑑賞者が立ち、影を落とすことで初めて現れるようになっており、ほとんど読むことができない。静かないら立ちや隔絶を感じさせる一方で、会場に吊るされた映像に登場する紙粘土素材で作られた林檎のオブジェは、データ(あるいは知識)を解体、破棄し、現実的な実践によって新たな知恵の実を獲得しようとする抵抗の象徴のようにもみえる。
「未来」としての作品《Fluidity of the Future Machines》(未来の機械の流動性)では、顕微鏡とドローンを用いて撮影された映像を背景に、ミクロとマクロ、伝統とテクノロジーの視点を往還しながら水をめぐる様々なエピソードが語られる。葛飾北斎の《神奈川沖浪裏》(1831年)を引用し、壁面にぐるぐると渦を巻くように書き連ねられたテキストは水をめぐる質問とChatGPTによるその回答で構成されている。地球をめぐる水の物語のボイスオーバーは、次第に人体内部の液体の循環へとつながり、両者は次第に一体化し、最後にこう締めくくられる。「しかしすべてが変化したとしても、地球に生きる私たちが向き合わなければならない唯一のものが、エゴである」。
オープンプロセスで制作されたこれらの作品は、制作の過程も作品も、帰結せず、断片化されており、ポジティブとネガティブの両方の未来に向けた開かれた可能性を宙吊りのまま暗示させる。展覧会タイトルの「トリプティック(三幅対)」は、三つの物語が続きものとしてヒエラルキーや段階をもつのではなく、それぞれが対となって同時に成立する構造も表しているのだろう。物語は植民地主義時代の人種人類学から始まり、テクノロジーを用いた未来を感じさせる物語へと進んでいくが、一方でそれらは常に現在を語っている。それゆえインドネシアの現在地をめぐる物語は、いつしか同時代性を帯びた私たちの物語に繋がっていく。我々を形作るアイデンティティ(エゴ)を懐疑し、今一度探る物語は、大きな歴史を背景にした国家的あるいは抽象的欲望と小さな個人や日常生活の間をくるくると往還しながら我々の周りを飛びまわっていく。